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浅井惠子のコメント「武士道 」

空手道は日本の武術です。
武術は、武士道という精神のもとに成り立っています。
その歴史に於いて、佛教、道教、儒教、日本神道の教えが導入されています。
空手に道をつけたのは、空手プラスその導入された教えの道のことです。
空手と武士道は一体であり、それが、世に伝わる「心技一体」です。
故に空手家は特に高段者は、空手の技術のみでなく、心の向上も一体に学ばなければなりません。その為に道場訓があります。

空手道は礼に始まり、礼に終わるとされています。
正座をし、両手を床につけ、師に対し、その最高の礼、即ち最敬礼をするのは、その師が人格高尚にして、尚且つ長年の人生をかけ、血の滲む様な鍛練の末、崇高なる空手技術を身につけた、最も尊敬に値する師だからです。
そしてその礼は、自分自身の淨い心の表現でもあります。
このような武士道精神、即ち空手道精神を理解し、学び、実践する為に努力している空手家は多勢います。

しかし空手の真髄を学ばず、技も身につけず、段位を偽り、高段を自称し、資格も無いのに、人を自分の前にひざまずかせ最敬礼をさせる事は、不正当であり、その嘘をつく事、人を騙す事に恥じていない行為は、武士道の精神、即ち空手道の精神に反するものであり、空手家と称するに値しないものであります。


武士道について以下の如く簡潔にまとめました。

武士道

武士道とは正義を意識し、自分の心を浄め磨きその磨き上げた心を行動の基準とするものです。
武士道とは形の美学ではなく、心の美学であり、行いの美学であります。
故に武士道は、恥を知る事に敏感です。
嘘をつく事に恥を感じ、人を騙す事に恥を知り、人の物を盗む事を恥とし、義理人情を欠く事を恥じる、其の他諸々、人として恥ずかしい行為を恥じる事です。

武士道は武士の理念であり、道徳でもあります。そして武士の掟とも云えます。
武士道の中で最も厳しいのは「義」(正しい道理)です。
武士にとって卑怯な行動や不正な行為は最も恥じるべきものであるとされています。
武士道は勇気を奨励するものでありますが、眞の勇気は血気の勇ではなく、常に平静を保つ事、即ち勇敢と平静は表裏一体の如くであり、 道徳的勇気、不屈、勇猛、剛胆は武士としてあるべきで、自己の感情に溺れた、そして非道徳な猛りは、「血気の勇」「匹夫の勇」である。 中国に「大勇如懼」(大いなる勇者は弱者の如く)という諺があり、弱者は常に猛々しいとも云われています。
武士道には「武士の情け」という武人の優しさがあるべきとされています。弱者、劣者、敗者に対する仁愛の心は特に武士としてふさわしいものであるとされています。 故に武術試合いの勝者は、敗者に対し、仁愛と尊重の礼を行います。

武士即ち、戦う人は粗野に走らず風雅の心を養うべきとしています。それは教養によって培われるものとしているので、武士道は永遠の学びとされています。
その仁愛の心、風雅なたしなみ、その優しさの感情、他人の痛みに対する思いやりと尊重は、礼の始まりであります。

武士道は礼を重んじ、此の礼儀の精神が無ければ、戦いに勝っても武士の不面目とされたのです。故に戦場に於いても戦う敵にたいしてすら礼儀を通す心をもつものです。

武士道は卑怯未練の醜さを克服し、仁義を裏切らない事も強調されます。

武士は粗衣、粗食の中で武を練磨し軟弱な虚飾(見せかけの美)を最も嫌悪するものです。

忠義が最も重んじられている武士道は、自国の名を汚す言動を最も恥ずべき事であるとされています。

一口に武士道と言っても千差万別であるとも言われています

以上を簡潔にまとめました。


浅井惠子のコメント2「武徳」

武徳とは武者の道徳的行為を云い、略して武徳と称しています。

現代の武徳は伝統的武徳と連携し、広い心を持ち人に対し礼儀で接して、「武」でもって人を傷つけず、「強きでもって弱きをいびる事」をせず、人を助ける美徳を保持し、老いを尊び幼きを愛し、師を尊び道義を重んじ、慈、勇、智なる堅強な意思を持って文武両道を成し、社会に最大の貢献を尽くすこととされています。