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陳 興桂 先生 紹介

技術局長 陳興桂の空手人生    

ニックネーム 桂坊(KEIBOU)(日本語)
今から約49年前、マスター浅井がハワイへ空手を教えに行く前に、台湾へ寄った時、彼はまだ2才半位でした。
マスター浅井が一個月の滞在を終え、ハワイへ発った後、五年の間父親、陳宏宗先生は、毎朝、明け方四時頃迄、あちこちの地域で白鶴拳を教え、家に帰って、約二時間位睡眠をとってから、末っ子の興桂と、すぐ上の兄を自転車に乗せ、姉と、長男は歩かせて、自分が教職をとっている学校の、教室に連れて行きました。6時頃から7時迄空手の練習を、見学させていたとの事です。
マスター浅井が五年の任期を終え台湾へ戻った時は小学校一年生になっていました。
父親陳先生が、マスター浅井について空手の練習をしいているのを見ているうちに、自分も、道着をきて練習するようになり何時しか少年クラスが出来上がり、そこで練習する様になりました。

几帳面な彼は、心からマスター浅井を敬愛し熱心に空手を練習し、めきめきと群を抜いて上達しました。しかし。二年後の初段の審査を皮切りに
「審査は6回も落とされてしまいました。」誰よりも上手だと云うのに、
三回目に落とされた時、流石の彼も、悲しくなって涙を浮かべてしまいました、それを見たマスター浅井は彼を呼んで云いました、
「君は誰よりも空手が上手だ、審査も一番上手で、成績は一番上だ、けれども私は君を落す、何故か解るか?」
浅井哲彦 asaitetsuhiko
初めて浅井先生から空手を
習った時(6歳)
(左 浅井哲彦先生)
興桂は何故なのか解らないので黙っていました。
マスター浅井は「その解は君が私の妻の兄の子、つまり親戚だからだ。」と云いました。
そして合計6回も落としました。
陳興桂は、マスター浅井の言葉に励まされ、おとされてもおとされてもめげずに一生懸命やりました。
教育者だったその父親は、大喜びでした、自分も教育にとても厳しいからでした。
陳興桂がやっと初段をとった時、もう14才になっていました。
その事が、とても空手の教育に役立ちました。
審査に、パスしなくて、落ち込んでいる人を見ると何時も陳先生は、大声で叱ります。
「何だ一回位失敗したからって!桂坊は6回も落とされたんだぞ!」
そうすると、みんな急に元気が出て、一生懸命に励むのです。
興桂は、日本の総本部道場への指導員稽古へ何回も参加しに行きました。
稽古中によく人をけがさせる指導員に、突きをやられて前歯が二本折れました。

日本へ短期間滞在をし、マスター浅井の朝早い稽古でしごかれたり、雪の中、裸で練習したりしました。

彼の45年の空手人生の中で、学校へ行ってる時以外は何時も陳先生が通訳している空手の授業には参加し、
陳先生とマスター浅井の傍で熱心に練習して来ました。


全台湾空手大会で優勝した陳興桂17才向かって左、
右は、現在台湾高雄空手道委員会会長 藩蔡仁

陳興桂 当時22才

「中華電信」空手道推展歴史

譯:浅井恵子

現、国際日本武術空手道会IJKA技術局長である陳興桂(以下陳局長)は、1985年に、「中華電信」空手道道場へ赴き、空手の指導を受け継いだ。
陳局長は、若干28歳の年齢より、「中華電信」空手道指導33年の間に数回の道場移動、引っ越し及び稽古時間の変更などなど、其の他の衝撃及び不便などの遭遇を経て尚、空手道普及推展に対する決心は少しも揺るがず中断しなかった。
「中華電信」に於いて空手を教授するには、一般の大学や巷間の道場で教えるのとは異なるものである。 参加している生徒達は、ほとんどが管理職身分の人であり、その仕事の階級、知識領域、及び生活経験に於いて、一般の生徒とは大きな違いがあるからだ。
故に陳局長は、此の特殊状況の中で、稽古の前に必ず多種多様、及び深度の空手道教材を用意する必要があった。それによって、全ての生徒達に空手道を学ぶ為の需要を満足させた。
其の為、入会者人数が非常に増加し、まさに「門庭若市」(我が家の門庭が市場の如く賑やかである)と云う言葉によって、参加者の多数盛況ぶりを例えることが出来る。
この中華電信に於いて33年間の空手道教授の中で、多数の優秀成年選手、教練、審判、及び国際技術局指導員を育成して来た。
その人達が引き続き陳局長に協力し、全台湾各地及び、海外各国に於いての空手道指導及び、空手道普及に努める事を望みたい。

「中華電信」国際空手道指導員 周智文