ハワイにてJ.K.S. I.J.K.A.追悼キャンプ 【エドワード・フジワラさん】
私が始めて浅井先生に空手を教わった時は、突きを一生懸命練習して終った後疲れきって、外で座っているときでした。
そこへ浅井先生が来て「私は哲彦浅井です。」と云いました。私ははずかしかったけど「私は藤原です」と手をさしのべました。すると先生は
「次からは、あまりきつい練習をしないで楽しくやりなさい」
と云われました。それが私と浅井先生との出会いです。
私が浅井先生と出会った時は大学生で21歳でした。
それから42年間ですね。
思い出はいっぱいあります。
僕は60歳を過ぎました。浅井先生は僕の人生そのものです。
大学を出てから仕事を転々としている僕を浅井先生は本気で怒ってくれました。それで僕も腹を立てて定職につくことにしたのです。
思い出 その1
思い出はつきませんが、印象に残っているうちの一つは先生が日本へ帰る時、みんなが飛行場へ見送りに行く事になり、僕はお金がないので、そこら辺にあった子供用のミッキーマウスの絵柄が入ったネクタイをつけていきました。
先生はそれを見つけて、何も云わずに自分の高価そうなネクタイを外して、僕のネクタイと取り替え、僕に自分のネクタイをつけさせ、自分は僕のネクタイをつけたのです。
そして平気でみんなの方を向き、手を振って税関に入って行きました。僕はその事を何時迄も忘れません。
思い出 その2
ある日私が病気になって先生に
「今日は病気なので稽古はしません」と云ったら、先生は
「何ですか?病気?何が?」というので薬を見せて、女の人に翻訳をしてもらいました。病気ですと云ったのに「何の病気?」と聞くので「糖尿病」と「高血圧」です。といいました。
先生は、
「何ですか?わたしには理解できない」といったので、私は腹が立って
「OK。今から私はこの薬を飲まない、一生懸命練習します。ただし私の身に何か起こったら、あなたの責任です。死ぬかもしれません!!」といいました。
先生はOKといい、私は毎日薬を飲まないで空手のトレーニングをやけくそで一生懸命やりました。
その結果、私の糖尿病は無くなり、高血圧もなおりました。
思い出 その3
私と先生が道路を渡る時、先生は何時も私の後ろに移動して来て渡るのです。
ある日また私の前にいたのに、同じ事をしたので、
「先生、どうして何時も道路を渡る時、僕の後ろに来るのですか?」
と聞くと
「車が走ってきたら、後ろを歩いている人がぶつけられるのだよ。」
と云いました。
先生は私を守ってくれていたのです。
思い出 その4
ある日、マウイ島でパーティーがあった時、お坊さんが来ていました。お酒が出ていたので、私は先生の杯に注ごうとしたら、杯に手で蓋をしたので、もう一度注ごうとしたら、又、NOと云って蓋をしました。
「何故?」と聞くと、
「私はただの空手を教えている人だ。和尚さんはたくさん勉強している。私より偉いから先に和尚さんに注ぎなさい」といいました。
和尚さんは
「私は酒は飲まないが、この一杯は飲みます。ありがとう。」
といって飲みました。
浅井先生は泣かない、ぐちを云わない、そして何時も私に優しく、私が他人とトラブった時はいつも私の側に立って、イエスイエスと相手の話をきいてうなずいてくれた。
それから私は、それを見習って、人の文句を云わず、何かあった時はイエスイエスとうなづく事にしています。
私は40歳を過ぎてからは先生が教えてくれた事は全部ピックアップしました。
私は浅井先生のライフスタイルが大好きです。
ずーっと今も私は浅井先生のライフスタイルを実践しています。
神は私にとって一番大事です。
その神に私はずっと浅井先生の事を祈り、私自身と、私の家族、先生の家族の事をずっと祈って来ました。
人物紹介:藤原さんは、45年の間、私達が世界中の何処に居ても、毎年の浅井先生の誕生日、クリスマス、元旦には必ず、お祝いの電話をかけて来ました。
藤原さんの家には、浅井先生に関する衣服やいろいろなグッズと浅井先生が禁煙した際に吸った、最後の一本の煙草の吸殻迄が大事にガラスケースに飾ってあるという「ミニ・浅井哲彦記念館」とも云える一部屋があります。
浅井惠子