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サンフランシスコにてMr.横田耕作氏による偲ぶコメント

15歳から空手をはじめ、45年になります。
アメリカでは、日本人の先生は組織の運営で、アメリカ人には納得のいかない、つまりお前は何々のメンバーだから他の組織に行って稽古してはいけない。他の大会に出てはいけない。他の先生が来ても習いに行ってはいけないというのがあるのです。
私は日本人の先生の師範代をやらせて頂きましたが、日本の大会に代表で参加しました。その時、浅井先生の演舞を実際に見て凄いとショックを受けたのを覚えています。
後に威ずるところあって空手をやめたいと思いましたが、私は40年以上も空手をやって来ましたので、簡単にはやめられないで一年間悩んでいました。その間日本に戻ってある有名な「気」の道場へ入門し、二年間真面目に「気」の勉強をしましたが結局失望に終わり、空手も辞めようと思いました。
そして2000年にアメリカへ戻った時、、浅井先生がアメリカに来て空手の講習会を開くと聞いて、 「あの素晴らしい先生が来たのか。同じ様な(普通の)空手は見たくないけど、浅井先生の空手は見たい、もう60歳後半を過ぎているから、身体も固くなっているだろうな。」 と思っていたのですが、実際は我々よりは勿論、20代、30代の若者でも及ばない、柔らかくてピンピン動いておられ、これはもう年を超越しているな。と思い尋ねてみると、毎朝早くに二時間練習をしているとの事でした。 「それは武道家として当たり前だ。お前はやっていないのか」 といわれ、私は「これが私の空手道だ、60代になっても、70歳になっても見せられる空手でないと」 と思いました。
フットボールとかバスケットボールなどは40歳くらいになってお腹が大きくなって走れなくても、見せられなくてもコーチになれるが、武道は死ぬまで現役というのが、私の考えでした。それについて行ける先生がいなかったので、空手を辞めようという時にグッドタイミングで浅井先生にお会いして、そのインパクト、勿論20年前に演舞を見せて頂いた時も感動を受けましたが、自分が空手を辞めようと迷いに迷っていた時、これだと思いました。

その後、仕事で日本へ行った時、浅井先生に会って、自分の考えを話しました。
私は浅井先生の空手のすごさはさることながら、その考えが空手を商品化してはいけない。本当に自分の武道空手として、「これで生きて」、「これで死ぬ」のだと、その素晴らしい考えに感銘を受けました。

浅井先生は私に 「アメリカに戻って、空手を教える時、空手を商品化するな。他の仕事をして、空手はサイドで教えるのだ。そうでなくてはお前の弟子はお客になるよ。お客になると、教えられないよ。」
とおっしゃいました。
同時に浅井先生は、お金の為に教えるのではなく、空手をやりたい人は誰でも良い。組織の事は(どの組織に入っている人でも)一切気にしない。
どのスタイル(流派)でも良い、松涛流だけでなく、糸東流でも剛柔流でも、全部解るというので、そんな先生はいないですよ。すごいなと思いました。
一年経って、やっぱり空手を続けたい。先生の教えに従って行けば、自分の空手はうまくなるのではないかと思い、そういう訳で、私の空手人生に関しては、オーバーですが、浅井先生が救世主といえます。

浅井先生がアメリカへ教えに来られるようになって、この三、四年で30位の道場が増えました。それで先生は一年に一回は行くと、おっしゃいましたので、「三、四箇所(地域)になりますけど宜しいですか?」というと「一週間でも二週間でも、わしに来てほしい所があれば、どこへでも行く。アメリカ合衆国だけでなく、メキシコでも南アメリカでも何処でも行くよ」とおっしゃいました。
2005年にハワイへ、そのあとでカリフォルニアに、最終的にニューヨークへ来て頂きました。ニューヨークへ来て頂いたということで、新しい道場がドンドン増えたのです。 2006年7月浅井先生がニューヨークに来られる一週間前に、私は先生に会いに日本へ行きました。弟さんが来て、今回は行けない。一週間入院して、肺炎で食事がとれなくて10kg位痩せたので、行ったら死んでしまうと言われました。それでニューヨークの人達に電話してキャンセルという事になりました。ところが翌日、電話があり浅井先生が会いたいという事で行ったら、やはり痩せておられて、気力でビシッっと座って、人相も変わっていました。
「今回はやめましょう」と私が言ったとたん「俺の承認もなしにやめるとは何事だ!」「俺が行かないのだったら、二度とアメリカには行かんぞ」といわれました。
「そうだな残念だな」といわれると思っていたのに反対に怒られたので、私も気が動転して「我々も来て頂きたいのですが先生の体調が・・・」というと「いや大丈夫だ、俺は一回行くといったら、死んでも行く。言った事は守る。それが俺の人生だ。ニューヨークには行くぞ!」
「もう延期すると言ったんですが」というと「電話しろ!俺が行くといったら行くのだ」と言われました。「もう浅井先生はとめられない。指導員が二人ついて行く」という事で、浅井先生にはホテルで休んで貰えば良いという事で、ニューヨークに行っていただきました。
しかも先生は稽古にも出られたのです。
次にメキシコに行き、ニューヨークでの指導で疲れたり、飛行機に乗った事やスペイン語だし、文化も違うということもあって、朝ベッドからもう起きられなくなり、ホテルで休んで下さいと言うと「いや行くんだ」というので、「医者を呼んできますので、ドクターストップがかかったらやめて下さい」「解った」という事で、医者を呼んで30分かけて心臓、血圧をいろいろ調べました。
それは寝ていられた時と医者が来たときとはゴロッっと変わって、自分でもう体調を戻されたのです。
「体重は少し軽いけど、血圧も大丈夫、心臓も大丈夫だから無理をしなければ良い」という事で、行くことになり、それも沢山の人でしたので屋外で稽古しました。
いやーもうびっくりしました。朝起き上がれない人が稽古をやるんだと。這い出していくのではなく、ちゃんと歩いて本当に最後の力をお使いになったのだと思います。
お帰りになる時も、ちゃんと歩いて行かれたので良かったと思っていましたが、その後の全国大会に出られて、それもあったと思いますが8月15日に亡くなられたと聞いて、信じられなかったけれど、あの状態を見たので、やっぱりあの旅行が良くなかった、もっと強く怒られても止めたらよかったと思います。
でも私が言っても聞かないと思いますが・・・。
もっと10年20年指導してもらいたかった・・・。

浅井先生は「俺の人生は空手。空手は俺の人生。空手と一緒に生き、空手と一緒に死ぬんだ」とずっと前からおっしゃっておられました。
それで本当に身体で示された。
私は自分もこれから、本当の武道空手をアメリカで教えて行きたいです。


浅井先生は私の中に生きています。
浅井先生の様に死ぬ迄やれるか解りませんが、浅井先生が私の中にいるという事が励みになります。
浅井先生に対するイメージは人間業ではないですね。松涛館の枠にはまらないその技を習いたいのにそんなに早く亡くなられ非常に残念です。
松涛流以外の全ての流派と中国の武術を全て稽古され、しかも深くて形も150とか、我々は20、30覚えるのに大変ですが、我々よりひとつランク上の空手の知識を、身体で表現できるもの全てを持っておられます。死ぬのは恐くないと、しょっちゅう言っておられました。
なぐったり、けったりではなく、武士道の死ぬ時のそれが武道で、それを言った通りに見せて頂いた先生はすごいです。

こういう人は何百年に一人の先生ですから、自分でできる範囲内でやっていこうと思っています。
松涛連盟をおつくりになって、私にアメリカで第一の道場を任せていただいたのと、浅井先生が最後に教えていただいたのは私の関係だったので、アメリカにとってとても幸運ですが、その責任は全うするつもりです。
道場ではいつも浅井先生が前に座っておられると何時も思っています。

横田耕作